ある日 パンっと頭の中で手をたたきました。そう、翻訳メモリ、マクロや置換機能の欠点(あくまで個人的な欠点です)は、和文原稿の「視覚的理解」が妨げられること。
数日前、英語と日本語の「速読法」の違いについて書きました。日本語は「漢字」が視覚的に目に入ることで、原文への理解がすすみます。 そのことに関連して、最近、ストン、と納得したことがあります。
<マクロ(翻訳メモリ)や置換機能を使うとなぜ翻訳精度が落ちるか?>
マクロや置換機能を使って効率を高めるとともに誤記や訳漏れを無くす
V.S.
手入力し、誤記や訳漏れは入念にチェックする
マクロ(翻訳メモリ)や置換機能を使うとなぜ翻訳精度が落ちてしまうのだろう。むしろ、ケアレス誤記や訳漏れがなくなるのだから、精度が確かにあがるはずなのに、それでも翻訳精度が落ちてしまうように、個人的には、感じています(「自分の場合は」、という意味です。そうでない人もいると思います。)
多くの人が翻訳メモリを使って翻訳している今の時代に「手入力」は非効率的でしょ、時代遅れ、とも言われます。 私個人は、昨年まで、完全手入力にこだわっていました。理由は、いくつかあります。
- 個人的にタイプが早く、手入力が苦でないこと
- 置換をすると、原文の理解が妨げられること
- 置換するとつい、和文の並び通りに訳してしまい、不自然な訳文に陥ること
- 翻訳メモリなどを使うと、自分のメモリ(頭)が単語をどんどん忘れていくこと
- 過去に使った表現が良いとは限らないこと。現状維持よりも少しずつ改善したい。
- 単語の一貫性、訳抜け、といったよく言われるマクロが解決する利点について、個人的に特に苦労を感じていないこと。何度も見直すため、手作業でも訳抜けは防げると思っていること
- 和文原稿をPDFファイルでいただこうとワードファイルでいただこうと、同じ速度で同じ処理をしたいこと
このような理由、そして第一の理由は、翻訳が「作業」になってしまわないよう、頭にも手にも負荷をかけながら行うことにより、品質を守りたい、と個人的に思ってきました。 今日は、「置換をすると、原文の理解が妨げられること」について、ひらめいたことがあるので、記載しておきます。
本題に戻ります。私が考えているソフトウェア支援の欠点は、訳す人の原文理解を妨げる、という点です。あとでリライトするからソフトに下訳してもらって大丈夫、と思っていても、いざリライトしようと思っても、原文を隅々まで理解していないため、有効なリライトが難しいことが多いように感じてきました。
では、なぜ原文理解が妨げられるか。翻訳原稿の日本語本文中に、置換などした英語が入ることで、「大丈夫」と思っていても、原文の理解が確実に妨げられると思うのです。 そのことはなんとなく分かっていたのですが、ひらめいたのは、5月2日に書いた、「漢字による視覚的理解」のことです。 ある翻訳中に、はっとひらめき、答えが出たのです。
私たち日本人は、ずいぶん多くの情報を、「漢字」を使って視覚的に理解します。 一方、英語というのは、視覚的理解をさせてくれません。 だから、日本語の本や新聞は「斜め読み」ができるけれど、英文はいわゆる「斜め読み」ができないわけです(5月2日参照)。なお、英語を「手早く読む」ためには、日本語のときに行う「斜め読み」ではなく、トピックセンテンスを探す「部分読み」が効果的です。「斜め読み」と同じくらいの時間で、手早く読むことができます。
そう、やっときちんと理解した、マクロや置換の弱点。文章の「視覚的理解」を得意とする私たち日本人にとって、翻訳する和文原稿に英語が部分的にでも入ることで、原文理解がどうしても妨げられること。 ということは、逆にその点を強化、つまり原文理解の工程を余分に十分に加えれば、マクロや置換を使いながら、手作業と同様、またはさらに高い精度、品質のものを提供できる可能性があるのです。
二の足を踏まず、ワードファスト、秀丸マクロ、などなど、一度使ってみようかしら?
でももう少し、検討する予定です。これまでの私の人生、選択肢のうち「大変そうなほう」「難しいほう」、を選んで進んできました。負荷をかけてこそ成し遂げられること、が多くありました。人それぞれ、スタイルがあるのですが、今の私は「苦労する翻訳」が好きかな。
なお、現在は、ワードの置換機能を少しだけ利用しています。利点と欠点のマッチングポイントを見つけ、「手入力の良さ」と「置換機能の良さ」を足して二で割ったような作業を基本としています。それも、和文原稿の内容が難解な場合、置換もあまり使わないほうが早いとき、もあります。